凱旋門賞って何?どこで開催されているの?その起源や歴史についても紹介!

凱旋門賞って何?どこで開催されているの?その起源や歴史についても紹介!

凱旋門賞って何?

1920年に第一次世界大戦後に衰退したフランス競馬再興を掲げて誕生した国際競争です。

ヨーロッパのみならず世界中のホースマンが英ダービーやケンタッキーダービーと並び憧れ、勝利を目標とする世界最高峰の競走の1つとして知られています。

国際競馬統括機関連盟が公表する年間レースレーティングに基づく「世界のトップ100GIレース」においても、何度も首位に輝き、常に評価されています。

ヨーロッパでの競馬シーズンの終盤に開催され、その年のヨーロッパ各地の活躍馬が一堂に会する中長距離のヨーロッパチャンピオン決定戦とされています。

ただし、近年では中距離レースの価値が上昇したことが影響し、凱旋門賞の価値は下がりつつあります。

日本でも近年きわめて知名度や人気の高い競走で、日本国内で最上級の価値をした競走馬が1960年代後半からしばしば参戦しています。

凱旋門賞開催を盛り上げるため凱旋門賞の前日に2つのGI競走と3つのGII競走が、当日に凱旋門賞をメインに6つのGI競走が施行されており、その週末の2日間は凱旋門賞ウィークエンドと呼ばれています。

今回はそんな凱旋門賞についてご紹介していきたいと思います。

凱旋門賞

1920年に第一次世界大戦後に衰退したフランス競馬再興を掲げて誕生した国際競争です。

ヨーロッパのみならず世界中のホースマンが英ダービーやケンタッキーダービーと並び憧れ、勝利を目標とする世界最高峰の競走の一つとして知られています。

国際競馬統括機関連盟が公表する年間レースレーティングに基づく「世界のトップ100GIレース」においても、何度も首位に輝き、常に最上位に評価されています。

ヨーロッパでの競馬シーズンの終盤に開催され、その年のヨーロッパ各地の活躍馬が一堂に会する中長距離のヨーロッパチャンピオン決定戦とされています。

ただし、近年では中長距離レースの価値が上昇したことが影響し、凱旋門賞の価値は下がりつつあります。

日本でも近年きわめて知名度や人気の高い競走で、日本国内で最上級の活躍をした競走馬が1960年代後半からしばしば参戦しています。

凱旋門賞開催を盛り上げるため凱旋門賞の前日に2つのGI競走と3つのGII競走が、当日に凱旋門賞をメインに6tuのGI競走が施行されており、その週末の2日間は凱旋門賞ウィークエンドと呼ばれています。

競走条件

創設以来から、2400mで行われています。

主催のフランスギャロは、本競走を種牡馬・繁殖牝馬の選定競走と位置付けています。

その為、出走資格は3歳以上の牡馬・牝馬に与えられており、生殖機能のない騙馬には出走資格は与えられていません。

本競走は定量戦で行われており、2017年以降、本競走における負担重量は、3歳牡馬は56.5㎏、4歳以上牡馬は59.5㎏と定められています。

フルゲートは2022年までは20頭でしたが、2023年より24頭に拡大されました。

また、本競走は1971年にヨーロッパで競走の格付け制度が創設されて以来、最高格のグループ1に位置付けられています。

歴史

フランスでは、19世紀半ばに3歳馬のための国際的なクラシック競争としてパリ大賞が創設され、国外からも一流馬を集めて成功していました。

これにならって、古馬のための大競争が企画され、第一次世界大戦終戦直後の1920年に創設されたのが凱旋門賞でした。

しかし初めの30年間は国外(特に競馬先進国のイギリス)からの一流馬の参戦はなく創設の目的を果たせませんでした。

1949年に大幅な賞金増によって世界一の高額賞金競走となると徐々に注目を集めるようになり、シーバードやミルリーフと言った名競走馬が一流馬を相手に勝つことで、凱旋門賞の国際的な名声はますます高まりました。

1986年にはイギリス、フランス、西ドイツ、アイルランドや日本、南米からもクラシックホースが集まり、ダンシングブレーヴがレコード勝ちしました。

凱旋門賞の成功にあやかって、世界各地に国際的な大競走が創設されました。

これらの多くは極めて高い賞金を出して凱旋門賞の上位馬を呼び寄せることで権威を高めようとしました。

1990年代には、いくつかの競走は凱旋門賞を超える賞金を出すようになりました。

一方、凱旋門賞は世界最高賞金の座を奪還するためにスポンサーと契約し更なる賞金の積み増しを行なっています。

フランス競馬の成立

フランスでは狩猟乗馬と馬場馬術が発展しましたが、競馬に関しては後進国でした。

イギリス風の競馬が持ち込まれたのは17世紀になってからで、ギャンブルを伴う競馬はフランス貴族の間で流行し、彼らはイギリス人を真似て、乗馬服や鞍、更には乗馬スタイルもイギリス風に変えています。

競走馬は全てイギリスから輸入しており、18世紀半ばには毎年数千頭の競走馬がイギリスからフランスに売られました。

また、多くのイギリス人の調教師や騎手が招聘されました。

19世紀になっても相変わらず毎年15000頭から20000頭の軽種馬を輸入に頼っていました。

1833年にようやく、フランス馬種改良奨励協会が組織されました。

会長にはイギリス人のヘンリー・シーモア=コンウェイ卿が就任されました。

協会は、イギリス風の競馬を行い、賞金によってサラブレッド生産を刺激し、フランス産のサラブレッドの資質向上を目指しました。

そしてよく1834年から、パリやシャンティイで競馬を開催するようになります。

1936年にはイギリスを模倣してジョッキークラブ賞が、1843年にはディアヌ賞が創設されました。

これらの公認競馬に出走できるのはフランス産の競走馬に限られていました。

パリ大賞の創設

競馬の人気が定着すると、軍の演習場も兼ねていたシャン・ド・マルスの競馬場の土質が問題となってきました。

1856年には皇帝大賞に43頭もの登録があり、いかにも手狭となりました。

こうして1857年にブローニュの森に隣接したロンシャン草原に新しく立派なロンシャン競馬場が新設されました。

奨励協会は、更なるフランス馬の資質向上のために、3歳一流馬による2400mの国際競争を開催することにしました。

10万フランの巨額の賞金がパリ市トパリの鉄道各社から提供され、皇室からも美術品が下賜されることになりました。

イギリス競馬界との話し合いを経て、最終的にはイギリスとフランスのダービー馬が集まるように、開催時期は英国ダービーの11日後の5月末とされました。

両ダービーで敗れた実力馬にも新たなチャンスとなるよう、距離は3000メートルで行われることとなりました。

こうして1863年に、世界的に見て初の本格的な国際レースとなるパリ大賞が創設されました。

市議会賞の創設

19世紀の終わり、フランスで「パリミュチュエル方式」の馬券が発明されました。

すぐに、奨励協会の発売するパリミュチュエル方式の馬券以外は非合法となり、奨励協会は豊富な資金を手にするようになりました。

この頃すでにパリ大賞は30年目を迎え国際的な大レースとして名声を確立していたが、パリ大賞は3歳馬しか出走することができませんでした。

そこで、1893年の秋に、4歳以上の国際競走として2400メートルの市議会賞が創設されました。

このレースは外国では好評を博しましたが、負担重量の問題から、フランス国内ではパリ大賞と並ぶような高い権威を得られませんでした。

凱旋門賞の誕生

このため、新たに馬齢重量による2400メートルの国際大レースが秋のロンシャン競馬場に創設されることになりました。

競走の目的は外国産馬との対戦によってフランス産馬の優秀さを証明することになりました。

当初、この大レースは「戦勝賞(ヴィクトワール賞 Prix de Victoire)」の名で計画されていたが、奨励協会の事務局長だったルネ・ロマネ=リヨンデによって「凱旋門賞」という名称に改めらました。

凱旋門賞は、それまで市議会賞が行われていた日程で開催されることになりました。

このため市議会賞は1週遅い時期に変更され、さらにそのためにグラディアトゥール賞という長距離レースの日程が1日後へずらされました。

フランスでは1914年からはじまった第一次世界大戦のため、1915年から1918年は競馬が行われておらず、ロンシャン競馬場が再開されたのは1919年になってからでした。

このため1920年に創設された凱旋門賞は、フランス競馬と馬産界の復興のシンボルとなることを期待されました。

第1回凱旋門賞

凱旋門賞の優勝賞金は約17万フランで、パリ大賞の33万フランには遠く及ばないものの、イギリスダービーやフランスダービーを上回る賞金が提供されました。

しかしながら、フランス国内の鉄道は第一次世界大戦によって破壊されており、移動に時間がかかりすぎるためイギリスからの一流馬の参戦はなかったし、ヨーロッパの他の国々は戦争で疲弊し競馬どころではなかった。

このため第1回の凱旋門賞は、奨励協会の期待に反し、外国からの出走はイギリスのカムラッドとスペインのヌウヴェランのわずか2頭だった。

このうちカムラッドは春にパリ大賞を人気薄でまんまと逃げ切った馬で、凱旋門賞では3番人気となった。迎え撃つフランス勢の一番手は、前年の2歳チャンピオンのシドカンペアドールで、3倍の本命となった。

これに続くのが、パリ大賞でカムラッドを短頭差まで追い詰めたアンブリーで、直前のロワイヤル・オーク賞を制して3.8倍の2番人気だった。

このほかにはフランス牝馬二冠のフラワーショップが出走した。

レースが始まると、カムラッドは抑えたままの体勢で優位となり、そのまま鞭を使うことなく楽勝し、もとは25ギニーの安馬だったカムラッドが、7戦全勝で初代凱旋門賞優勝馬となった。

こうして第1回の凱旋門賞は、「外国の一流馬との対戦」も「フランス馬の優秀さの証明」もいずれも果たすことができずに終わった。

第二次世界大戦以前の凱旋門賞

第2回凱旋門賞

1921年、2回目の凱旋門賞は賞金が倍になり、優勝賞金は約34万フランとなりました。

しかしこの年は、フランスダービー馬のクサールがパリ大賞で英国馬に惨敗し、前年のフランスダービー馬スールビエも共和国大統領賞でイギリスのハンデキャップホースに敗れ、フランスとイギリスのサラブレッドの間にはかなりの実力差があるとみなされましたため、この年もイギリスから一流馬の参戦はありませんでした。

クサールは凱旋門賞の直前に復調し、本命となりました。

これに続いたのがイギリスのスクエアメジャーでしたが、創設間もない大レースのため主催者の不手際があり、出走前に2回もスタンド前を行進させられて興奮し、スタート前に暴走してしまいます。

同様にイギリス牝馬のブルーダンも騎手の制御が効かなくなり、レースが始まると2400メートルの競走とは思えないスピードで先頭を切りました。

ブルーダンは最終コーナーを待たずに失速したが、これにかわって先頭に立ったのはクサールで、そのまま押し切って優勝しました。

創設2年目にして初めてフランス産馬が凱旋門賞優勝を果たすことになったが、クサールの生産者は前年の覇者コムラッドの馬主だったサンタラリであり、彼は2年連続で優勝馬の関係者となりました。

外国馬の不在

3年目の凱旋門賞にはフランス以外からの参戦がなく、クサールが大本命、2番人気以降は12倍以上となって、クサールが難なく連覇を達成しました。

クサールが引退したあと、4年目の凱旋門賞はイギリスのパースが優勝しました。

しかしながらパースはイギリス国内で最も優れたサラブレッドというわけではなく、この年のイギリス二冠馬パパイラスは凱旋門賞には目もくれず、アメリカの競走馬と対決するために渡米していました。

5年目・6年目の凱旋門賞も外国からの出走がありませんでした。

それどころか、前年の覇者パースも同時期のイギリスのジョッキークラブステークスに出走することを選び、凱旋門賞の主催者を落胆させた。イギリスの一流馬がさっぱりやって来ない理由はいくつか考えられていたが、フランス・フランの相場の下落や、フランスでは奨励協会が馬券を独占し馬主が自由に大金を賭けられる環境がないことが、イギリスの馬主に敬遠されていると考えられていました。

在フランスイギリス大使を務めていた第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリーはしばしば素晴らしい名馬を凱旋門賞に登録して主催者に期待をさせましたが、結局出走することはなく、その後もイギリスから本物の一流馬がやってくることはありませんでした。

一方、国外からやってきたのはイタリアやドイツの活躍馬で、ドイツからは1928・29年にドイツの歴史的な名馬となったオレアンデルがやってきました。

イタリア産馬は1929年のオルテッロや1933年のクラポムなどの優勝馬を出しましたが、こうした傾向は、イギリスの一流馬との対戦によってフランス産馬の優秀さを証明しようという当初の意図とはそぐわないものとなってしまいました。

第二次世界大戦前夜

1930年代、世界経済の低迷やスペイン内乱はフランスの経済にも重大な悪影響を及ぼしており、競馬界もその例外でありませんでした。

凱旋門賞の賞金は一時期60万フランまで増えていたが、1930年代の半ばには40万フランまで減り、フランス国内の一流馬さえ凱旋門賞に出走しないものも出ました。

1937年に1着賞金が100万フランに増額されたが、この頃には既に創設当時と比べてフランの価値は半分以下になっていた。さらに1938年にはドイツがオーストリア併合を行い、秋には対ドイツ開戦目前と考えられました。

実際、1938年の9月後半にはフランス国内に250万人の動員が行われ、競馬どころではなくなってきました。

危機は9月末のミュンヘン会談によってギリギリのところで回避されたようだったが、10月頭の凱旋門賞は極めて低レベルのメンバーで行なわれました。

結果的にはこれが第二次世界大戦前に行なわれた最後の凱旋門賞となりました。

1939年、フランスに名馬ファリスが登場した。ファリスはフランスダービーとパリ大賞で致命的な不利を跳ね返して劇的な勝利を飾ると、無敗のまま、イギリスのセントレジャーステークスでイギリスのブルーピーターとの対決することにしました。

ブルーピーターはイギリスに登場した名馬で、この年英国二冠とエクリプスステークスを制し、9月のセントレジャーでイギリスクラシック三冠に挑むことになっていました。

セントレジャーの1か月後には凱旋門賞があり、セントレジャーの結果次第では凱旋門賞でも両雄の対決が見られるかもしれなかった。しかし、9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、イギリスとフランスはドイツへ宣戦布告しました。

セントレジャーも凱旋門賞も中止となり、両者の対決は幻となりました。

第二次大戦下の凱旋門賞

2年間の中断

1939年の秋に宣戦布告をしたとはいえ、実際にはほとんど戦闘は行われなかった。このため1940年の春には例年よりも規模を縮小しながら競馬が行なわれました。

ところが5月になると突如としてドイツ軍はフランスへ進攻し、1ヶ月ほどでパリも占領されてしまいました。

走路が軍の飛行場となっていたシャンティイ競馬場はドイツ軍に明け渡されたが、逃げ遅れて見捨てられた競走馬100頭ほどが餓死しました。

このなかには1927年の優勝馬モンタリスマンも含まれており、ファリスはドイツ軍に接収されて連れ去られてしまいました。

1940年の秋に占領軍から競馬再開の許可が出た。ロンシャン競馬場は使えなかったため、10月にオートゥイユ競馬場で開催されることとなりました。

春に施行できなかった3歳牡馬のためのプール・デッセ・デ・プーランと3歳牝馬のためのプール・デッセ・デ・プーリッシュは一つにまとめて「エッセ賞」として10月の末に行なわれました。

本来は夏に行われるフランスダービーは11月に「シャンティイ賞」として行なわれた。パリ大賞、カドラン賞も代替競走が行われました。

通常であればこれらの勝者が凱旋門賞に集まるところだが、秋の短い期間にクラシック競走と凱旋門賞すべてを連戦するのは明らかに無理であると考えた主催者は、この年の凱旋門賞も中止しました。

占領下の凱旋門賞

1941年にはロンシャン競馬場が再開され、凱旋門賞も開催されることになりました。

占領下で物資統制が行われていたが、パリジャンはカーテンで作ったドレス、木やコルクで仕立てた靴で華やかに着飾ってエレガントな雰囲気を守りました。

しかしこの年の凱旋門賞に集まったのはわずか7頭で、これは創設以来2011年までの中で最少の出走頭数でした。

本命になったのはマルセル・ブサックの古馬ジェベルでした。

ジェベルは前年の英国ダービーで本命になるほどの実力馬だったが、戦局の悪化で渡英が叶わず、秋に代替競走のエッセ賞を勝っていました。

相手は1歳年下のルパシャとネペンシで、両者はパリ大賞やロワイヤル・オーク賞で接戦を演じたライバル同士でした。

ルパシャは初出走前に馬主を蹴り殺し、無敗のままグレフュール賞、オカール賞、リュパン賞を勝ち進んでフランスダービーも勝っています。

一方のネペンシはダービー卿の所有馬(ドイツ占領下のフランスではイギリス人馬主が許されないためフランス人の名義を借りていたで、ノアイユ賞に勝ちました。

両者の初対戦はパリ大賞で、3/4馬身の僅差でルパシャが勝っています。

2度目の対戦はロワイヤル・オーク賞で、このときはゴールまであと30メートルのところでネペンシがルパシャをとらえましたが、そこでネペンシの騎手が鞭を落とすミスを犯し、短頭差でルパシャが勝利をものにしていました。

凱旋門賞のゴール前は、ロワイヤル・オーク賞と同じようにルパシャとネペンシの大接戦となり、短頭差でルパシャが勝ちました。

ジェベルは離れた3着に終わっています。

ルパシャは1926年の凱旋門賞優勝馬ビリビの子で、凱旋門賞としては初めての父子制覇となりましたが、ビリビは既にドイツ軍によってドイツへ連れ去られていました。

フランス国内では飼料が不足し、競走馬の生産も大きな規制を受けました。

競走馬には1頭1頭配給票が与えられ、その数はわずか2100頭に限定されたため、ほとんどの競走馬は3歳で引退を余儀なくされました。

しかし、ルパシャ、ネペンシ、ジェベルは翌1942年も現役を続行した。ネペンシはカドラン賞を勝ち、ジェベルはサブロン賞、ボイヤール賞、アルクール賞、エドヴィル賞を勝ちました。

ルパシャとジェベルの対戦が実現したのは夏のサンクルー大賞でした。

この競走はそれまで「共和国大統領賞」の名で行われていましたが、ドイツ侵攻で共和国が崩壊したためにレース名が変更になっていました。

ルパシャは残り50メートルまで先頭だったが、ジェベルが最後にこれを捕まえ、レコードタイムで勝ちました。

ルパシャにとっては初めての敗戦でした。

ルパシャはこのあとプランスドランジュ賞を圧勝し、凱旋門賞で両者の再戦が実現しました。

3歳勢ではフランスダービー2着のトルナードとロワイヤル・オーク賞に勝ったティフィナールが出走してきたが、フランスダービーとパリ大賞を勝ったマジステールやダービー卿所有の無敗のアーコットは凱旋門賞には出て来ませんでした。

本命になったのはルパシャで、2番人気はジェベルでした。

いつも通りルパシャが早めに先頭にたって直線に入ったが、ルパシャはそこで故障を発生して後退しました。

これを見たジェベルは楽に先頭に立ち、そのままゴールした。2着にはトルナードが入りました。

ルパシャは引退すると、ドサージュ・システムの考案者であるヴュイエ大佐の未亡人の牧場で繋養されました。

一方のジェベルもこの凱旋門賞を最後に引退して種牡馬となりました。

ジェベルの子はフランスとイギリスで活躍し、過去の凱旋門賞の優勝馬の中でもっとも成功した種牡馬となりました。

真の国際大レースへ

競合レースの登場

解放によって国外への出走が可能になると、最初に海外遠征を行ったのはマルセル・ブサックでした。

ブサックのプリアムはハードウィックステークスを勝ち、カラカラはイギリスで最も重要な競走の一つであったアスコットゴールドカップに勝ちました。

既にコリーダやジェベルなどによって凱旋門賞を4勝していたブサックは、毎年何頭もの有力馬を凱旋門賞に送り込んでおり、1946年の凱旋門賞ではそれが顕著に表れました。

ブサックは本命のカラカラを出走させましたが、このときブサックがカラカラのためのペースメーカーとして出走させたのは1944年の凱旋門賞優勝馬のアルダンでした。

ブサックの競走馬は強すぎて、彼の所有馬が登場すると他の馬は回避するので、馬券の倍率は下がって馬券の売り上げが落ちるのが主催者の「悩みの種」ですらあったようです。

しかし、1946年の凱旋門賞の出走メンバーが手薄になった理由はほかにもありました。

この年、凱旋門賞の6日後に、イギリスのアスコット競馬場で新しい大レースが創設されました。

3歳馬のために2マイルで行われるキングジョージ6世ステークスです。

この年のパリ大賞とロワイヤルオーク賞の優勝馬スヴレンはイギリスの大レースを選びました。

フランスダービー馬プリンスシュヴァリエは凱旋門賞に出てきましたが、プリンスシュヴァリエは既にパリ大賞とロワイヤルオーク賞でスヴレンに敗れており、明らかに3歳馬の中では2番手以下の評価でした。

前年の2歳チャンピオンのニルガルや、フランスダービー2着のエルスヌールもキングジョージ6世ステークスを選びました。

英国ダービー馬のエアボーンやアイルランドダービー馬のブライトニュースも出走したので、キングジョージ6世ステークスのほうが凱旋門賞よりも国際的な一流馬を集めることに成功していていました。

これ以降も、セントレジャーで2着になったアルバールや2歳チャンピオンのジェッダなど、フランスの一流馬にも凱旋門賞よりキングジョージ6世ステークスを選ぶものが続出しました。

フランスの主催者は、キングジョージ6世ステークスの主催者に対し丁重に施行日の変更を申し入れたが、受け入れてもらえませんでした。

英国ダービー馬の参戦と失敗

イタリアからは相変わらずときおり凱旋門賞へ挑戦する馬が出ていたが、久しぶりに本格的な海外の一流馬が凱旋門賞にやってきたのは1948年のパールダイヴァーミゴリでした。

パールダイヴァーは前年の英国ダービー馬です。

ミゴリはアイルランドに籍をおくアガ・カーン3世の所有馬で、2歳の時には後のフランスダービー馬を破っているし、3歳になってダービーでパールダイヴァーに次ぐ2着になったあと、エクリプスステークスやチャンピオンステークスに勝ち、古馬になっても3勝していました。

この年はソ連がベルリン封鎖を行い、ちょうどパリでは国連安全保障理事会が開催中で、理事の多くが凱旋門賞の見物にやってきて国際色に花を添えました。

とは言え、アガ・カーン3世はこの年の英国ダービーとパリ大賞を制したマイラヴも所有しており、マイラヴのほうは凱旋門賞には出さなかったので、アガ・カーン3世としては自身の最良の馬を凱旋門賞に送り込んだというわけではなかったし、パールダイヴァーはダービー優勝後は絶不調で、凱旋門賞でも39倍と全く人気がありませんでした。

しかしそれでもミゴリはロンシャン競馬場の2400メートルの記録を塗り替えて凱旋門賞に勝ちました。

凱旋門賞の主催者にとっては残念なことに、ミゴリはこの11日後にイギリスでチャンピオンステークスに出て凡走し、セントレジャーで3着だったソーラースリッパーに大敗してしまいました。

結果的には、両馬の参戦は凱旋門賞の価値を高めるという意味ではあまり有効ではありませんでした。

前年のフランスの2歳チャンピオンのジェッダが、凱旋門賞に出ずにキングジョージ6世ステークスに挑んで2着になったという事実も、凱旋門賞をフランスで最高の国際競走にしたいと考える主催者にとっては望ましい状況とはいえませんでした。

賞金の大幅増

ミゴリが勝った時の凱旋門賞の1着賞金は約520万フランで、第二次世界大戦前に比べると額面では5倍になっていたが、フランス・フランの価値は戦後も下がり続けており、魅力的な額とは言えませんでした。

競合するキングジョージ6世ステークスはこれよりも賞金が高かったそうです。

凱旋門賞の価値を本来の意図通りにするためには賞金の大幅増が不可欠と考えた主催者は、国営宝くじとの何ヶ月にも渡る長い交渉の末に、宝くじ馬券を利用して賞金の資金源とすることに成功しました。

こうして、1949年7月に発表された1着賞金額は2500万フランで、生産者賞や登録料も合わせると約3000万フランとなりました。

この結果、馬齢重量の競走としてはヨーロッパでもっとも高額賞金の競走となりました。

この効果はめざましく、条件の発表が遅かったにもかかわらず、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、アメリカ、アルゼンチン、アイルランドから合わせて120頭の出走の登録がありました。

この中にはアメリカの三冠馬アソールトや、アルゼンチンの最強牝馬エンペニョーサの名もありました。

イギリスからは二冠馬のニンバスとオークス馬のムシドラが登録し、イタリアやベルギーからも最強馬が登録しました。

最終的に出走したのは28頭で、これは過去最多の出走頭数となりました。

この年勝ったのはブサックのコロネーションでした。

そもそもブサックはコロネーションのために凱旋門賞を権威づけたともされています。

主催者は、この世界的な大競走の誕生を内外にアピールするために、レースの前夜にロワイヤル通りのマキシムで「競馬・生産界の晩餐会」を開催しました。

キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの誕生

1949年に行なわれた凱旋門賞の賞金の大幅な増加は思わぬところに影響を及ぼしました。

創設以来日程が競合して一流馬を奪い合っていたイギリスのキングジョージ6世ステークスは、凱旋門賞の賞金増を受けて撤退せざるを得なくなりました。

アスコット競馬場はキングジョージ6世ステークスを、夏に行われている1マイル半(約2400メートル)のクイーンエリザベスステークスと統合することにしました。

1951年は大英博覧会開催100周年にあたり、イギリスでは夏に大々的に英国祭を行いました。

こうして1951年7月に、フェスティヴァル・オブ・ブリテン・ステークスが行なわれました。

賞金は大幅に増えて、イギリス国内ではダービーに次ぐ高額賞金となった。この競走は翌年キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと改称し、以来、夏のヨーロッパを代表する国際大レースとして定着しました。

時期的にも競合しない高額国際競走の誕生は、フランスの主催者にも歓迎されました。

凱旋門賞とキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの両レースの制覇に最初に挑んだのはタンティエームで、1950年に凱旋門賞に勝ったタンティエームは翌1951年に第1回のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに挑みました。

以前に長距離遠征に失敗して体調を崩したことがあるタンティエーム陣営は、レース当日の早朝にタンティエームをフランスから現地へ直接空輸するという作戦をとったが、不運なことにその日は強風が吹いて飛行機は激しく揺れ、「身の毛もよだつ」「不快な旅」となってしまいました。

このため明らかにタンティエームは体調を落としており、スタートで後手を踏んだ上に最終コーナーで不利を受けて3着に敗れています。

その後タンティエームはフランスに戻って復調し、記録的な大観衆となった66,840人の有料入場者の前で2度めの凱旋門賞を楽々と制して、フランス競馬史上最良の競走馬の1頭となりました。

ワシントンDCインターナショナルの誕生

キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス創設の翌年、1952年の秋にアメリカ大陸にも国際的な大レースが誕生します。

ワシントン近郊のローレル競馬場が創設した1マイル半のワシントンDCインターナショナルのことです。

この競走ではヨーロッパからの一流競走馬を集めるために、遠征費用を負担し、アメリカでは主流ではない芝コースで行い、スタートの方法をヨーロッパ風に行われました。

各国の競走条件を折衷して採用したこのイベントは、北米大陸や西ヨーロッパのみならず、南米、オーストラリア、冷戦時代のソビエトや、敗戦から復興中の日本からも競走馬を呼び込むことに成功しました。

アイルランドの一流馬、ズクロ(Zucchero)は第1回のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで2着になった馬で、ズクロは秋シーズンの目標を凱旋門賞ではなく第1回のワシントンDCインターナショナルと定めてフランスの競馬ファンを落胆させました。

この年イギリス最良の3歳馬はタルヤーで、ダービー、セントレジャー、エクリプスステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと勝って50年ぶりに賞金記録をつくり、歴史的な3歳馬となりました。

タルヤーも凱旋門賞に出ないとわかったとき、フランスの競馬界は失望の色を隠せなかったようです。

この年の凱旋門賞に出走した外国馬はわずか1頭、イタリアのオワーズだけになってしまいました。

1953年の騒動

1953年の凱旋門賞は国際大レースに相応しいメンバーが揃いました。

イギリスからはセントレジャーの優勝馬プリモニションが参戦、コロネーションカップで前年のワシントンDCインターナショナルの勝馬を破ったズクロも参戦しました。

敗戦国西ドイツからは20年ぶりにドイツダービー馬のニーデルレンダーが参戦、アガ・カーン3世は前年の優勝馬ヌッチョを送り込んできました。

地元のフランス勢ではパリ大賞の優勝馬ノーザンライトが出走しました。

競馬場には10万人の大観衆が集まり、戦後の初代大統領のヴァンサン・オリオール大統領やドイツの鉄鋼王ハインリッヒ・フォン・ティッセン男爵も観戦にやってきました。

このレースは最終コーナーのあたりで起きたアクシデントで大荒れとなりました。

坂下でブサックのジャニターとニーデルレンダーが激しく衝突し、右膝の後ろを大きく切ってしまい、イギリスのプリモニションは勝負どころで右後肢を蹴られて腱まで達する深い傷を負ってしまいました。

これらのトラブルを尻目に早めに抜けだしたフランス牝馬のラソレリーナが逃げ切り、その半兄のシルネが2着に入りました。

妹兄での1・2着は凱旋門史上初めての珍事だった。道中のラフプレーに何人もの騎手が異議を唱え、イギリスのマスコミは主催者を批難したが、主催者は審議の結果、特定の馬に非を認めるのは不可能だと結論づけました。

これがきっかけとなって、フランスではパトロールフィルムが導入されることになりました。

パトロールフィルムは6年後の凱旋門賞で、ゴールしたときは同着と判定されたセントクレスピンとミッドナイトサンに決着をつけるのに役だちました。

主催者にとって良いニュースは、この凱旋門賞で3着に入ったワードンが、その秋にイタリアに転戦してローマ賞を勝ち、さらにアメリカへ遠征してワシントンDCインターナショナルを圧勝したことで、この2つの勝利は凱旋門賞の価値を高めることになりました。

まとめ

今回の記事では、凱旋門賞についてご紹介していきました。

凱旋門賞は知名度だけではなく、レースそのものも世界最高峰に位置するレースであり、世界の競馬関係者にとって、自分の馬を凱旋門賞で勝たせるというのは最大の目標であり、悲願となっている事でしょう。

凱旋門賞について気になった方は是非チェックしてみてください。

本間真一郎

1978年12月22日生。東京大学経済学部中退。 某大手商社で役職に就く典型的なエリートでかなりの知的派。その一方で趣味の競馬歴は既に20年を超えており、2021年のエリ女で3連単を的中させたことを未だに友人に自慢している。 好きな馬はもちろんアカイイト。 趣味は車とウイスキー。最近横浜にバーを開店させたオーナーとしての一面もある。 好きな言葉は「明日の百より今日の五十」。

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