ディープインパクトって何?経歴は?種牡馬としての成績や産駒についても解説!

ディープインパクトって何?経歴は?種牡馬としての成績や産駒についても解説!

ディープインパクトって何?

ディープインパクトは、日本のサラブレッドで、競走馬として、2005年にシンボリルドルフ以来日本競馬史上2頭目となる、無敗での中央競馬クラシック三冠を達成、2006年には日本調教馬としては初めて芝部門・長距離部門で世界ランキング1位となった馬です。

種牡馬としては2012年から2022年の日本のリーディングサイアーであり、国内クラシックを歴代最多の24勝、欧州クラシックを6勝するなど歴史的成功を収めました。

2020年には産駒のコントレイルが日本競馬史上3頭目の無敗での中央競馬クラシック三冠を達成し、世界初の父子2世代での無敗三冠を達成しています。

2005年にJRA賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬、2006年に年度代表馬・最優秀4歳以上牡馬を受賞し、 2008年(平成20年)には顕彰馬に選出されました。

今回はそんなディープインパクトについてご紹介していきたいと思います。

競走馬時代

生い立ち

2002年3月25日、北海道勇払郡早来町(現在の安平町)のノーザンファームで誕生しました。

同期にはシーザリオ、カネヒキリ、ラインクラフト、インティライミ、ヴァーミリアンが名を連ね、ノーザンファーム場長の秋田博章は生まれたばかりの同馬を見て、体のバランスは良いと思ったが、ほかの馬と比較して目立って良い点があるとは感じなかったと語っています。

0歳時にセレクトセールに「ウインドインハーヘアの2002」として上場されたディープインパクトは、金子真人に7000万円で落札された。

馬体が薄かったことから上場されたサンデーサイレンスの産駒14頭のうち9番目の落札価格でした。

購入した金子は「瞳の中に吸い込まれそうな感覚に襲われた」と証言するほどこのときの瞳の輝きに衝撃を受け、また多くの人々に強い衝撃を与える馬になって欲しいという思いから「ディープインパクト」と名付けた。

ディープインパクトは0歳10月にノーザンファーム遠浅の1歳馬用の厩舎に移動した。

関節に不安があると判断されたため、遠浅に移動した翌日から「パドック」と呼ばれる小さな放牧地に入れられて運動を制限されました。

その後、広い場所で放牧されるようになったのはそれから約1か月後でした。

ノーザンファーム場長の秋田は遠浅時代について、集団のリーダーではなかったものの、集団の先頭に立って走ろうとし、薄い蹄を擦り減らして血だらけになりながらも走るのをやめなかったと語っています。

1歳9月にはノーザンファーム早来に移り育成を受けました。

小柄で繊細な面があったため、女性スタッフが育成を担当しました。

その育成担当スタッフやノーザンファーム場長の秋田は共にディープインパクトの柔軟性の高さを指摘しています。

一方で、柔軟性がありすぎるところや、小柄で非力なところを欠点として指摘する声もありました。

厩舎に入厩

ディープインパクトは2004年4月15日に早来町のホルスタイン市場で産地馬体審査を受けました。

そして同年9月8日、栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎に入厩し、池江敏行調教助手と市川明彦厩務員が担当することになりました。

初めてディープインパクトを見た市川は、同馬が小柄でかわいらしい顔をしていたため牝馬でないかと思い本当に牡馬かどうか股を覗きこみ確認したといいます。

入厩して1か月が経過した10月、坂路の調教で初めてタイムを計ったときに、調教師の池江が58秒から59秒で走らせるように指示したが、これよりも速い54秒前半のタイムを出してきたそうです。

この時、きっとバテバテになってしまっているに違いないと調教助手の池江敏行が心配して駆け寄ったところ、ディープインパクトは「汗一つかいておらずケロっとしていた」といい、このとき厩務員の市川は、「ただ者ではない」と思ったとのちに語っています。

その後12月に武豊騎乗でデビューすることが決定したため、デビュー戦4日前の調教で武が初めて騎乗することになりました。

池江敏行は武豊に「この馬、ひょっとしたらとんでもない馬かもしれないよ。久々に味わった、気持ちいいぐらいの背中なんだ」と言い、武豊が騎乗したディープインパクトは栗東トレーニングセンターのCウッドコースを6ハロン81秒5、ラスト3ハロン38秒3、1ハロン12秒5という時計で走り、併せた馬に1.6秒先着しました。

調教を終えると武豊は池江敏行に「敏行さん、この馬、ちょっとやばいかも」と興奮気味に話し、翌年の活躍に期待した。

新馬戦から東京優駿

2004年12月19日阪神競馬第5競走の2歳新馬戦で武豊を据えてデビュー。

武豊は引退まで手綱を握ることになりました。

レースでは、上がり3ハロン33秒1の脚で、のちに金鯱賞・マイラーズカップなど重賞4競走に優勝し安田記念で2着となるコンゴウリキシオーに4馬身の差をつけて勝利。

レース前に池江敏行は武豊に対して「あまり派手に勝たせないでくれ」と願い出ており、レース後厩務員の市川は、このデビュー戦の強い勝ち方に「派手にやってしまった」と消耗を心配しましたが、レース後すぐに息が戻っていたので「クラシックでも戦える」と思ったと言います。

島田明宏によると、このレースの翌週の水曜日、ある雑誌の企画で京都のシティホテルで行われた、ディープインパクトの新馬戦の11日前に香港で達成した海外通算100勝をメインテーマにしたインタビューを一通り終えたあとに、武の方から「ちょっと読者用に来年の楽しみな一頭を言うとしたら、先週デビューしたディープインパクトですね。これはみなさん覚えておいてください」と言ったといいます。

続く2戦目は2005年1月22日に、京都競馬場で行われた若駒ステークスでした。

レース前日前に、武豊は「凄いことになるから見ていてください」と対談相手に語っていました。

レースでは最後方から競馬をし、4コーナーに入っても戦闘の馬から10馬身程度の差がありましたが、直線で一気に突き抜け5馬身差で勝利、武豊はこのレースについて「前が飛ばしすぎだと思ったからあわてることはありませんでした。捕まえられるだろうと思っていました」と振り返っています。

この若駒ステークスでの圧勝によって、早くも「三冠は確実」とまで言われる存在となりました。

次走には皐月賞トライアルの第42回弥生賞に出走。

武豊はこのレースを前にして、マスコミを通じてファンに向けて「競馬場に見に来る価値のある馬だと思います」とコメントしました。

関東では初出走となりましたが、ハイセイコーを超える当競争史上最高の単勝支持率71.5パーセントを記録しました。

レースでは2歳王者のマイネルレコルトや京成杯を制したアドマイヤジャパンいかにクビ差ではあったものの鞭を一回も振るわずに勝利し、クラシックの最有力馬に躍り出ました。

レース後、武豊は勝利騎手インタビューで代表質問が終わった後、ディープの良さは何か、と問われると「負けない所です」と答えました。

また、3着に敗れたマイネルレコルト鞍上の後輩浩輝は、「ディープインパクトに並ばれた時、威圧を感じました」をコメントしました。

第65回皐月賞では、単勝支持率が63.0パーセントと1951年のトキノミノルの73.3パーセントに次ぐ史上2位となりました。

レース開始直後にいきなり躓き落馬寸前まで体制を崩し、ほかの馬から4頭身ほど離れた最後方からの競馬になりました。

更に向こう正面でローゼクロイツと接触場面がありました。

それでも、4コーナーでディープインパクトの気を抜くそぶりを感じた武豊がレースで初めて鞭を入れると、直線では2着のシックスセンスに2馬身半の差をつけて勝利。

フジテレビ系で実況を担当した塩原恒夫アナウンサーはゴール直後、「武豊、三冠馬との巡り合い」と五七五風にその勝利を讃えると同時に三冠を確実視するコメントを発しました。

無敗での皐月賞制覇は2001年のアグネスタキオン以来16頭目であり、また弥生賞勝ち馬の皐月賞制覇もアグネスタキオン以来の10頭目となりました。

武豊は蛯名武五郎、渡辺正人、岡部幸雄と並ぶ皐月賞最多の3勝目を挙げ、レース後の勝利騎手インタビューではディープインパクトの走りについて、「いや、もうパーフェクトですよ、ほんとにね。走っているというより飛んでいる感じなんでね」と答えました。

当日の中山競馬場には前年を5000人近く上回る8万5146人が入場し、売り上げも前年比100.3%の256億7616万600円を記録しました。

レース後の記念撮影で武豊は競馬学校時代の1984年に無敗での三冠を達成したシンボリルドルフの主戦騎手・岡部幸雄が行ったパフォーマンスと同じ、指を1本立てて三冠取りをアピールしました。

5月29日の東京優駿では、当日の東京競馬場には前年比114.8%となる14万143人もの観衆が押し寄せました。

左回りのコースは初めてでしたが、単勝支持率は73.4%とハイセイコーの持っていた当競走における単勝支持率最高記録を更新する人気となりました。

スターとは皐月賞同様に出遅れ、道中は後方に抜け出したインティライミに残り200メートル地点で並んでから同馬を突き放して5馬身の差をつけ、前年のキングカメハメハに並ぶ2分23秒3のレースレコードタイで優勝。

1992年のミホノブルボン以来となる史上6頭目の無敗の二冠を達成しました。

オーナーの金子真人は前年のキングカメハメハに続いて馬主として史上初のダービー連覇を達成しました。

武豊は勝利騎手インタビューで「感動しています。この馬の強さに…」といい、レース後の記念撮影では指二本立てて二冠をアピールしました。

武豊によるとこのレースは「アクシデントさえなければ勝てるだろう」というぐらいの自信があったと言い、「ディープの状態は万全でしたし、中山2000メートルから東京の2400メートルに舞台が変わることが、乗っている立場としては気持ち的には楽でした。前年の皐月賞で初めて目一杯の競馬をしたことで、ダービーではもっと走るだろうという思いもありましたね」と述べています。

そして翌日のスポーツニッポンの手記において、武豊はディープインパクトのことを英雄というニックネームで呼ぶことを自ら提案しました。

対戦した騎手もその勝ち方を高く評価し、四位洋文は「サラブレッドの理想形」、ケント・デザーモは「セクレタリアトのようなレース運びだった」と語っています。

三冠達成、有馬記念での初黒星

東京優駿の後は、Ⅿず栗原トレーニングセンターで調整されましたが、7月10日に札幌競馬場に移動し、それから約2ヵ月間は同競馬場で調整されました。

放牧に出さずに札幌競馬場で調整されたのは、厩舎での調整のリズムを変える必要がないことと、避暑が出来るからでした。

札幌競馬場での調整では行きたがる気性を治すための調教もされ、9月11日に栗原トレーニングセンターに戻り、その後は栗当で調整が行われました。

秋初戦となった神戸新聞杯は、91日の徹夜組も含めて前年比147.2%の4万6775人の観客が阪神競馬場に詰めかけました。

馬体重は前年の東京優駿と同じく448㎏で、単勝オッズは1.1倍で1番人気に支持されました。

ディープインパクトはやや飛び上がるようにしてスタートを切り、道中は最後方から2番手の位置でレースを進めました。

正面スタンド前ではやや前に行きたがるところを見せましたが、2コーナーを回って向こう正面に入った所では完全に折り合い、3コーナー過ぎで外に出たディープインパクトは手綱を持ったままの状態で加速し、直線入口で大外から先頭に並びかけるとそこから瞬時に抜け出し、2着シックスセンスに2馬身半の差をつけて優勝しました。

勝タイム1分58秒4はトウショウボーイが持つ従来の記録を塗り替える当時のレースレコードを記録しました。

レース後、武豊は「本当に素晴らしい馬です。何とかこの馬を三冠馬にしてやりたいですね」とコメントしました。

エアメサイアで勝利した10月16日の秋華賞の勝利インタビューで武豊は、「来週に大きな仕事が残ってますから」と答えました。

そして三冠の掛かった2005年10月23日の第66回菊花賞では、京都競馬場には菊花賞の入場動員レコードとなる13万6701人の観客が押し寄せました。

京都競馬場には863人の徹夜組を含む1万1936人のファンが午前7時20分の開門時に列を作り、JRAが先着100名に配布したディープインパクト像前での記念撮影整理券は7時30分に全てなくなり、300食限定の「めざせ三冠!!ディープインパクト号弁当」も7時45分に完売しました。

ディープインパクトの単勝支持率は79.03パーセントとなり、単勝式オッズは1.0倍となりました。

この単勝支持率は菊花賞としては1963年のメイズイの83.2パーセントに次ぐ史上2位、グレード制施行後の重賞としては当時史上最高の単勝支持率でした。

レースでは好スタートを切ったものの、スタート後の最初の3コーナーから掛かってしまいます。

その為武豊はディープインパクトを馬群の内側に入れ、前に行くのを防ぎました。

その後馬群中団で落ち着いたディープインパクトは、直線で先に抜け出していたアドマイヤジャパンを差し切り2馬身差をつけて優勝。

シンボリルドルフ以来、21年ぶり史上2頭目の無敗での三冠馬となりました。

なお、ゴール前での関西テレビ馬場鉄志アナウンサーの実況「世界のホースマンよく見てくれ!これが日本近代競馬の結晶だ‼」は2006年のFNSアナウンス対象を受賞しました。

そしてレース後の記念撮影では武豊が指を3本立てて三冠をアピールしました。

三冠レースを全焼した内国産馬に2001年から1億円の報奨金が送られることになっていたため、ディープインパクトが初の対象馬となりました。

菊花賞後、陣営はディープインパクトを年内にあと1レース出走させる方針を示したうえで、ジャパンカップと有馬記念のどちらに出走するかを検討し、最終的に有馬記念に出走させることをけっていしました。

事前のファン投票では16万297票を集めて1位となりました。

レース当日の中山競馬場には前年比129.6パーセントとなる16万2409人もの大観衆が押し寄せました。

古馬とは初対決となったものの、単勝式オッズは1.3倍を記録しました。

しかしレースでは、いつものように後方から進めるも、ハーツクライに半馬身及ばず2着に惜敗し、8戦目にして初黒星を喫しました。

レース後、鞍上の武は「今日は飛ぶような走りではなかった。普通に走ってしまった」と初めての敗戦にショックを隠し切れないコメントを残しています。

2005年の活躍をうけ、JRA賞では年度代表馬および最優秀3歳牡馬に選出されました。

JRA賞選考委員会の記者投票では最優秀3歳牡馬では満票(291票)を、年度代表馬では285票を獲得し、関西競馬記者クラブ賞も受賞した。

阪神大賞典から宝塚記念

1月23日に行われた前年のJRA症状授賞式において、オーナーの金子が「夏にヨーロッパでいいレースがあれば使いたい」と発言し、海外遠征を行う意向が示されました。

海外遠征については2月、調教師の池江によって、春は阪神大賞典から天皇賞(春)へ向かい、天皇賞(春)の後にイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスとフランスの凱旋門賞のどちらに出走するか決定すると発表されました。

2006年の初戦となった阪神大賞典は、88人の徹夜組も含めて前年比108.7%の3万3334人のファンが阪神競馬場に訪れ馬券の売り上げも前年比135.6%の57億1539万8700円を記録しました。

3ヶ月の休み明け、ディープインパクトにとっては初めて背負う58㎏の斤量、初めて体験する水を含んだ稍重馬上、直線で吹き付ける強い向かい風、菊花賞以来の3000メートルの長丁場での折り合いといった不安材料が懸念されましたが、単勝オッズは1.1倍で1番人気に支持されました。

他馬とほぼ横並びのスタートを切り、1周目のスタンドではやや前に行きたがるそぶりを見せましたが、2周目の向こう正面に差し掛かる所で折り合いが付き、逃げるトウカイトリックの15馬身ほど後ろを進みました。

2周目の3コーナーで鞍上の武豊が手綱を持ったまま加速して先行馬との差を詰め、馬なりで4コーナーを回ると勢いの違いで先頭に並びかけ直線に入りました。

武豊がステッキを右に持ち替えて肩鞭を入れるとさらに足を伸ばして後続を突き放し、ゴール前の100メートルほどは流すようにして2着に3馬身半の差を付けてゴールしました。

レース後、武豊は「この馬の強さを改めて感じましたね。大きな夢がありますので、それに向かっていいスタートが切れました」とコメントしています。

4月30日の第133回天皇賞(春)では、単勝支持率は1940年にマルタケが記録した71.5%を上回り当競争史上最高となる73.5%を記録しました。

スターとではまたも出遅れ、道中は最後方から2番手の位置で折り合いをつけて進みました。

そして3コーナー手前の残り1000メートル地点からロングスパートを開始して先行馬を交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる下り坂スパートを続け、4コーナーで早くも先頭に立ちました。

直線では、出走馬中最速となる上がり3ハロン33秒5の脚をつかってそのまま先頭を維持し、2着のリンカーンに3馬身半の差を付け優勝しました。

三冠馬の翌年春の天皇賞勝利は1985年のシンボリルドルフ以来2頭目であり、勝時計の3分13秒4は芝3200mの世界レコードタイムで、1997年の第115回天皇賞のおいてマヤノトップガンが記録した3分14秒4のレースレコードを1秒更新しました。

2着に入ったリンカーンに騎乗した横山典弘が「生まれた時代が悪すぎた」というほどの内容だったようです。

武豊は「世界にこれ以上強い馬がいるのかな」といい、海外遠征での勝利に期待感を示しました。

レース後の記念撮影で武豊は指を4本立てて四冠をアピールしました。

この記録した勝ち時計3分13秒4は、全兄ブラックタイドの仔であるキタサンブラックによって2017年、第155回天皇賞(春)にて破られるまでの11年間コースレコードとして君臨し続けました。

天皇賞(春)の勝利により、5月7日に発表された世界統一ランキング上で、芝・超長距離部門の世界ランク1位となりました。

翌5月8日、調教師の池江が凱旋門賞出走に向けた海外遠征プランを発表、その前哨戦として6月25日に京都競馬場で開催される第47回宝図化記念に出走することになりました。

事前に行われたファン投票では8万9864票を集め1位となり、単勝支持率も天皇賞(春)に続いて1961年にシーザーが記録した72.4%を上回るレース史上最高の75.2%をマークしました。

また、ディープインパクトはこのレースでデビューからJRA競走11戦連続で1番人気に支持され、歴代1位のハイセイコーに並びました。

当日の京都競馬場は雨で稍重の馬上状態でしたが、道中後方2番手追走から残り700メートル地点で進出を開始すると、直線では馬場外目を伸び、2着のナリタセンチュリーに4馬身差を付け優勝しました。

そして同競走を優勝したことで史上7頭目、史上最速での10億円馬となりました。

ここでも、レース後の記念撮影で武豊は指を5本立てて五冠をアピールしています。

宝塚記念優勝を受けて、7月10日付の世界ランキングでは芝長距離部門で世界1位となりました。

これは日本調教馬として史上初のことです。

凱旋門賞

凱旋門賞の行われるフランスに出発する前の2006年7月2日、たてがみの生え際にマイクロチップが埋め込まれました。

これはフランスでは2006年からすべての出走馬にマイクロチップを埋め込むことが義務付けられているからです。

日本では2007年に産まれてくる産駒から個体識別のためにマイクロチップを埋め込むことが義務付けられたが、ディープインパクトはこれに先立ち日本産馬としてはマイクロチップの埋め込み導入第1号となりました。

翌3日には金子真人、池江泰郎、武がフランスへ視察に訪れ、滞在先がカルロス・ラフォンパリアス厩舎になることが決まりました。

同月19日にはJRAからフランス遠征に際する出国予定日や帰国予定日が発表され、帯同馬が、金子が所有する3勝馬、ピカレスクコートに決まったことも報じられた。

20日には国際競馬統括機関連盟が発表した「トップ50ワールドリーディングホース」の1月1日から7月10日までの集計で125ポンドの評価を獲得し、ランキングが設立された2003年以降、日本馬として初めて世界1位となりました。

ディープインパクトは8月2日から美浦トレーニングセンターに滞在してピカレスクコートとともに検疫を受け、翌3日から8日まで美浦で調整が行われました。

9日、台風の影響で約2時間遅れとなった午前10時33分、成田国際空港から日本航空6461便で出国し、現地時間9日午後2時56分にフランス・パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着しました。

飛行機には、池江敏行、市川、ピカレスクコートの調教助手である大久保秀信が乗っていました。

シャンティーで厩務員の経験があり、フランスで通訳兼運転手を担う西森輝夫の4人です。

フランスでは4DKのアパートを借り、その4人で凱旋門賞当日まで滞在することとなりました。

ディープインパクトは、空港から検疫を受け、馬運車で40分ほど移動、午後5時過ぎにカルロス・ラフォンパリアス厩舎に到着しました。

ドーヴィル競馬場で参戦していた武も駆けつけ、翌日には池江も合流しました。

日本から持ち込んだ飼い葉を使用し、飲み水は持参した浄水器によって現地の水が途中から用いられました。

調教は、厩舎の奥にあるエーグル調教場にて行われました。

日本で主に使用していたウッドチップコースがなく、ダートコースを代用する予定でしたが、ダートコースは雨で状態が悪くなり、クッション性に富み天候の影響を受けにくいファイバーサンドコースに切り替えられました。

8月末には、雨が続いてファイバーサンドコースも次第にクッション性が失われ、再びダートコースに舞い戻ることとなりました。

9月13日には主催者のフランスギャロの許可を受け[100]、凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場でスクーリングを兼ねた調教が行われました。

ピカレスクコートにラフォンパリアス厩舎の1頭を加えた計3頭で、装鞍所からパドックに向かい、本番と同じ2400メートルをダク、キャンターで駆けました。

先行するラフォンパリアス厩舎の1頭をリードホースと見立てて、直線で外から追い出してリードホースに2馬身先着しました。

軍士門隼夫によると、調教は「理想的な『予行演習』」だったといいます。

約80人の報道陣が集まり、日本人はその半数を占め、フランスの専門紙であるパリチュルフは、スクーリングを一面で扱い「ディープインパクト その時が始まろうとしている」との見出しが掲載されました。

10月1日の凱旋門賞は、前年の同競走の優勝馬ハリケーンラン、前年のブリーダーズカップ・ターフの優勝馬シロッコ、そしてディープインパクトの古馬3頭が「三強」を形成した。直前の各ブックメーカーのオッズではこの3頭が上位人気を占め、中にはディープインパクトを単独で1番人気に推すところもありました。

この3頭と対戦するのを他陣営が嫌ったためか、レースは8頭という史上2番目の少頭数で行われることになりました。

それまで欧州調教馬以外勝ったことのない凱旋門賞だが、現地のメディアやファンからは「今回はディープインパクトに勝たれても仕方ない」という諦めムードさえ見られました。

ロンシャン競馬場内では、日本人がディープインパクトの単勝馬券を多数購入したため、一時は1.1倍という断然の1番人気となりました。

事前の申し入れによりゲートには最後に収まりました。

好スタートを切り、今までの控える競馬とは違い道中2 – 3番手でレースを進めると、残り400メートル地点でいったん先頭となったが、残り100メートル地点でレイルリンクに、さらにゴール直前でプライドにも交わされて3位入線に終わりました。

敗因として武豊は「直線を向いてからハミを取らなかった。ギアが一段上がらなかった」と語っています。

そのほか競馬関係者もこの敗戦を分析し、岡部幸雄と柴田政人は斤量とヨーロッパ特有の重い馬場を敗因として挙げ、さらに岡部は現地のレースを1回経験させておいたほうが良かったとの見解も示しています。

また、江面弘也はフランスのアンドレ・ファーブル厩舎の3頭に囲まれながらレースを進めざるを得なかったことを指摘し、ディープインパクトは「『なにをしてでも勝たなければいけないフランス』に負けた」としています。

日本帰国からジャパンカップ

ディープインパクトは10月4日にフランスから日本に帰国し、千葉県白井市の競馬学校で検疫が行われました。

その後は、滋賀県のグリーンウッド・トレーニングにて3週間の着地検査を行う予定でしたが、調教師の池江によって10月29日の天皇賞(秋)にて復帰することが決まり、規定により同競走が開催される東京競馬場で着地検査が行われました。

10月11日には2006年限りで現役を引退することが発表され、51億円(8500万円×60株)のシンジケートが組まれ種牡馬となることが決定。

当時日本で最高価格となるシンジゲートが組まれ、午後3時から東京競馬場の事務所にて池江の会見が行われました。池江はこれまでに引退について話したことはなく、「寝耳に水」の状態でした。

しかし、引退発表から数日後の10月19日、凱旋門賞のレース後に実施された理化学検査でフランス競馬における禁止薬物イプラトロピウムが検出されたことがJRAによって発表されました。

そして11月16日、正式に凱旋門賞失格が通告されました。

天皇賞(秋)は、帰国して日が浅い中で出走させるのは馬が可哀そうだという事で回避が決定され、日本国内での復帰初戦はジャパンカップにずれ込むことになりました。

迎えた11月26日のジャパンカップでは2005年の有馬記念以来のハーツクライとの再戦となりました。

同競走は海外からは当年のカルティエ賞年度代表馬ウィジャボードを含む2頭しか出走せず、日本馬を合わせても11頭しかいないという、ジャパンカップとしては少数立てのレースとなりました。

単勝オッズ1.3倍の1番人気に推され、単勝支持率は61.2%を占めました。

日本国内で走ったレースの中では最も低かったですが、ディープインパクトは終始最後方で待機し道中を進めました。

そして直線に向くと内に入った他馬を体外から一気に捲り、ドリームパスポートに2馬身差を付け優勝しました。

ラジオNIKKEI所属のアナウンサー・中野雷太はゴールインの瞬間、凱旋門賞敗戦後にディープインパクトが「悪役に転じた」ことなどを踏まえて、「全てを振り切って、ディープインパクトゴールイン」と実況しました。

3着ウィジャボードに騎乗したランフランコ・デットーリは、そのパフォーマンスに「ファンタスティック・ホース」と評しています。

後に武豊はこう振り返っています。

「ディープのレースでプレッシャーがかかったものがあったとしたら、あのジャパンCです。」

レース後、武はスタンド前のインタビューで「飛びましたね」と語り、スタンドの観客を沸かせました。

観客の反応に対し、武豊は「心から嬉しくなった」といいます。

表彰式に出るときに武豊はファンと一緒になって万歳三唱をしました。

記念撮影では武豊の5本指にオーナーの金子の1本指が加わって6冠を表す6本指が出来ました。

一方、再戦ムードを盛り上げたハーツクライは。レース前から陣営が明らかにしていた喘鳴症が進行しており、見せ場なく10着に敗れました。

有馬記念

そして12月24日、引退レースとなる有馬記念に出走しました。

事前に行われたファン投票では11万9940票を集め、2年連続1位、勝つファン投票で選ぶレースとしては3レース連続で1位となりました。

単勝支持率は70.1%で、1957年に吐く力が記録した76.1%に次ぐ史上2位となりました。

レースでは道中後方3番手につけ、3コーナーから追い出して直線で早々と先頭に立つと、最後は流しながらも2着ポップロックに3馬身の差を付ける圧勝で、有終の美を飾りました。

武豊が「生涯最高のレースが出来た」「今までにないくらい、強烈な『飛び』だった」というほどのレース内容だったそうです。

このレースの勝利でシンボリルドルフ、98年99年のスペシャルウィークに続く3頭目のグレード制導入以降2年連続JRA年間獲得賞金1位馬となりました。

父・サンデーサイレンスにとってはこのレースでゼンノロブロイ、ハーツクライに続いて産駒による同レース三連覇を達成し、ヒンドスタンと並ぶ同レース最多の4勝を達成しました。

池江泰郎にとっては87年のメジロデュレン以来武豊にとっては90年のオグリキャップ以来16年ぶりとなる有馬記念2勝目を挙げました。

この後ウイニングランは行われませんでしたが、その理由について武豊はmゴールを過ぎてから走るのを嫌がったためだと語っています。

記念撮影では武豊の5本指にオーナーの金子の2本指が加わって七冠を表す7本指が出来ました。

当日の前競走が終了した後に引退式が行われました。

約5万人のファンが見守る中、厩務員の市川と調教助手の池江に曳かれながら、武豊を背に同日の有馬記念のゼッケンをつけて登場しました。

世界ランキングでは、夏から秋にかけては一時的に順位を落としたものの、有馬記念の優勝によって、最終的な2006年通年の世界ランキング4位となりました。

JRA賞でも年度代表馬及び最優秀4歳以上牡馬に選出されました。

年度代表馬は2年連続の受賞でした。

JRA賞選考委員会の記者投票では総得票数289票のうち年度代表馬で287票、最優秀4歳以上牡馬で288票を獲得しました。

前年に続き関西競馬記者クラブ賞も受賞しました。

まとめ

今回の記事では、ディープインパクトについてご紹介していきました。

ディープインパクトは、現役時代に圧巻のパフォーマンスでファンを魅了し、引退後も種牡馬として日本競馬史に様々な記録を残した世界的名馬です。

引退後も、種牡馬としてジェンティルドンナ、コントレイルをはじめとする多くのGI勝馬を輩出しています。

ディープインパクトが気になった方は是非チェックしてみてください。

本間真一郎

1978年12月22日生。東京大学経済学部中退。 某大手商社で役職に就く典型的なエリートでかなりの知的派。その一方で趣味の競馬歴は既に20年を超えており、2021年のエリ女で3連単を的中させたことを未だに友人に自慢している。 好きな馬はもちろんアカイイト。 趣味は車とウイスキー。最近横浜にバーを開店させたオーナーとしての一面もある。 好きな言葉は「明日の百より今日の五十」。

メッセージを残す