アンカツって誰?経歴は?騎手としての実績や現在について解説!

アンカツって誰?経歴は?騎手としての実績や現在について解説!

アンカツって何?

アンカツとは元JRA騎手の安藤勝己のことで、現役時代に「アンカツ」というニックネームで親しまれていました。

通算6593戦1111勝を挙げており、2013年1月31日に引退しています。

現在では競馬評論家や解説者としても活躍中です。

今回はそんなアンカツについて解説していきたいと思います。

アンカツの生い立ち

1960年3月28日、愛知県一宮市生まれで、和食の板前であった父親は、のちにアンカツの師匠となる吉田秋好の幼馴染でした。

アンカツが小学校3・4年生の頃には笠松競馬場の近くの店に勤務しており、このころにアンカツは初めて笠松競馬場を訪れています。

アンカツは子供の頃テレビで競馬を見たことがほとんどなく、中学生になった1973年にはハイセイコーの活躍が中心となって第一次競馬ブームが巻き起こったものの、媒体でハイセイコーを見た記憶は全くなかったため、「テレビで見てあこがれて騎手になろうなんて考えることは全然なかった」という

しかし、じきに兄・光彰が騎手見習いのような立場として吉田厩舎に出入りするようにったことから、これに伴ってアンカツも厩舎を頻繁に訪れたことで馬に惹かれるようになっていき、「なにか馬に関係した仕事ができればいいな」と漠然と考えるようになったとのこと。

当時、兄弟は母親と岐阜県大垣市で暮らしていたが、中学1年次の夏休み以降は笠松に居着き、そのまま厩舎の住み込みとなっています。

なお、出生からの姓は「北浦」でしたが、中学2年生の時に両親が離婚したことに伴い「安藤」姓となりました

1975年4月に地方競馬の騎手養成所・地方競馬教養センターに入所し、教養センターの同期生には、同じく笠松で活躍し「身内同然の仲」となる濱口楠彦や、大井競馬で活躍することになる早田秀治がおり、早田とは特に気が合う仲だったそうです。

環境の変化と座学の苦痛で胃潰瘍になり、2~3カ月の休養も経験しましたが、規定の1年半で卒業し、のちに騎手として笠松に戻りました。騎手デビューに際しては、年功序列を重んじる師の吉田から「最初は光彰が7、勝己が3の割合で乗せる。1年経ったら、上手い方に多く乗せるよう考え直す。兄弟同士、負けん気で頑張れ」と訓示されたといいます。

笠松競馬時代

デビュー~笠松競馬の第一人者になるまで

1976年10月20日に騎手としてデビューし、初戦は笠松競馬第6競走でハツシンロードに騎乗し、初戦は9着でしたが、3日後に開催されたジュニヤチャイナで初勝利しています。

12月26日にはシプリアパールで第1回ジュニアグランプリを制し、デビュー2ヵ月余りで重賞初勝利を挙げ、初年度は9勝、翌年は78勝と成績を上げ、3年目の1978年には116勝を挙げ、初のリーディングジョッキーとなりました。

以後、アンカツは18年連続でその地位を保っており、笠松では「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日はない」といわれる名騎手となりました。

若手の頃は、名古屋競馬所属で後年吉田稔を育てた山田義男を特に手本としていたそうです。

1980年には地方競馬騎手招待出場のため中央競馬で初騎乗し、のちに種牡馬として名を成すヤマニンスキーで中央初騎乗・初勝利を挙げ、同馬を管理していた浅見国一から、「中央にトレードしたい騎手だ」と高く評価されました。

このころに執筆された山口瞳の旅打ち自戦記『草競馬流浪記』では、中央で「天才」と称された福永洋一になぞらえ「笠松の福永洋一」と紹介されています。

オグリキャップとフェートノーザン

笠松時代のアンカツの騎乗馬のうち特に重要な1頭とみなされているのが、1987年に笠松でデビューしたオグリキャップです。

デビューから5戦を3勝・2着2回としていたオグリキャップに、アンカツは6戦目の重賞・秋風ジュニアから騎乗しました。

それまでは青木達彦、高橋一成のふたりが騎手を務めていましたが、青木は落馬負傷中、高橋は地方競馬全国協会の研修のため不在という偶然により回ってきた騎乗馬でした。

アンカツを背にして以降7戦7勝という成績を挙げたオグリキャップは、1988年春より中央へ移籍してGI競走で4勝、またそうした実績以上に印象的なレースを積み重ね、1980年代末より起きた競馬ブームを牽引しました。

当時の制度上、中央へ移籍した時点でアンカツがオグリキャップに騎乗する機会は失われています。

アンカツはこのことについて「寂しい、残念だ、という気持ちは自分にもあったはずだ」としながらも、「その頃には中央との交流競走など想像もつかないことだった。だからオグリキャップの移籍に関しては、すぐに割り切ることができた。そのことをいつまでも引きずってくよくよするようなことは、まるでなかった」、さらにオグリキャップが笠松在籍のままならば「ローカルなヒーロー」で終わっていたとして、「笠松からの旅立ちは、オグリキャップにとって幸せなことだったのだと思う」と述べています。

アンカツによると、オグリキャップが中央に移籍してから活躍するようになると、「中央でオグリに乗ってみたいでしょう」と聞く人もいたというが、そのように考えることはなかったといいます。

勝己は後に「オグリキャップがいたから中央競馬が地方馬にGI開放とかそういう流れになっていったんじゃないかと思いますし、自身の中央移籍への道を作ってくれたのもオグリキャップのお陰だと思っています」と述べ、自身にとってのオグリキャップの存在についても「自分の未来を切り開いてくれた馬だと思います。とても感謝しています」と述べています。

また、オグリキャップの中央入りと前後して、逆に中央から笠松へと移籍してきたフェートノーザンは、アンカツが騎乗した1987年秋以降、全国交流の全日本サラブレッドカップ、帝王賞、第1回ブリーダーズゴールドカップといった競走を含む、18戦14勝という成績を挙げました。

中央入り後、芝コースの競走で活躍したオグリキャップに対し、フェートノーザンはアンカツの印象では「完全にダート向き」であり、鞍上で体感した両馬の感触の違いは、以後の勝己にとって馬の適性を見極める上で極めて重要な指標となりました。

またフェートノーザンは先行有利といわれる地方競馬にあって、後方からの追い込みで実績を挙げた馬であり、「強い馬は後ろからでも勝てることを教えてくれた馬」であるとしています。

フェートノーザンは1989年の全日本サラブレッドカップ競走中に左前脚を骨折し、競走19日後の12月12日に安楽死処分となっています

アンカツは後年この結末について「今考えると絶対に何かしらの信号を出していたはず。それに気づいてあげられず可哀想なことをしてしまった」と述べ、騎手を引退した際には、笠松時代に最も思い出深かった馬としてフェートノーザンを挙げました。

また、若い頃にはしばしば騎乗馬を叱りつけていたが、後に「なんてかわいそうなことをしていたのか」と自省し、それが必要な場面であっても馬を叱ることができなくなったといいます。

なお、勝己は1995年に行われたインタビューの中で、オグリキャップ、フェートノーザン、マックスフリートを自身の騎乗馬の三傑として挙げています。

「交流元年」-中央競馬への傾倒

デビュー3年目から笠松におけるリーディングの座を守り続けていたアンカツでしたが、30歳を過ぎたころから、定石通りにレースを運べば当たり前のように勝つことができるという単調な繰り返しに飽き、騎手としての向上心を失い調教師への転身も視野に入れはじめていました。

そうした最中の1995年、中央競馬と地方競馬間の交流が大幅に拡大されることになり、地方主催で行う中央との交流重賞「ダートグレード競走」の整備や、条件つきではあったものの、地方在籍のままでの中央GI競走への出走が可能となりました。

「交流元年」と呼ばれたこの年、アンカツはマックスフリートも管理した荒川友司厩舎に所属するライデンリーダーと中央の重賞戦線に臨みます。

かつて中央と笠松で活躍したワカオライデンを父にもつ同馬はデビュー以来連勝を続け、1995年3月、10戦10勝という成績で中央のGII競走・報知杯4歳牝馬特別に出走、中央芝コースのハイペースに苦労しながらも、最後の直線では先行勢を一気に抜き去り、2着に3馬身半差、レースレコードという鮮烈な勝利を挙げました。

これで中央牝馬三冠初戦・桜花賞への出走権を得たライデンリーダーは一躍注目の的となり、本番が近づくと笠松には多くのマスコミが詰めかけ、勝己への取材も加熱しました。

しかし単勝1番人気に支持された桜花賞では、勝己に芝コースでの経験が乏しかったことが仇となり、流れを読みきれず4着という成績に終わっています。

その後、ライデンリーダーは牝馬三冠の残る二冠、優駿牝馬とエリザベス女王杯にも出走したが、それぞれで大敗を喫しました。

アンカツはライデンリーダーについて、牝馬ということもあってオグリキャップのような凄さは感じなかったと述べ、その注目のされ方についても「少し騒がれすぎかなと思っていた」と後に振り返っています。

ライデンリーダーでは中央のGI競走に手が届かなかったものの、ましたはGIでの騎乗を経て騎手としての情熱を取り戻し、新人時代に戻ったように騎乗の研究に再び取り組みはじめました。

アンカツが35歳の時、また「この馬がクラシックを狙えるのなら、今後も笠松からクラシックを狙える馬が出る」と確信し、そのとき桜花賞における不完全燃焼の内容を繰り返さないため、日本国外にまで赴いて芝コースでの騎乗経験を増やすよう努めるようになりました。

1997年からは、地方所属馬が出走できる中央競走枠が大幅に増加し、1998年に前年まで11戦0勝、22戦0勝と推移していたアンカツの中央成績は90戦7勝と向上しました。

1999年にはアンカツが「ジェット機」と評した笠松所属馬・レジェンドハンターによるデイリー杯3歳ステークスを含む455戦55勝という成績を挙げ、この頃より「アンカツ」のニックネームは中央ファンの間にも完全に浸透しました。

他方、アンカツはレジェンドハンターで2着に敗れた中央の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスについて「ライデンリーダーの失敗をまた繰り返してしまった」としています。

中央競馬への移籍

2001年9月8日、中央の阪神競馬第9競走でマヤノグレイシーに騎乗していた勝己は、最後の直線でバランスを崩した同馬から飛び降りた際に胸部と右足を骨折し、長期休養を余儀なくされました。

入院中、中央での少ない機会で結果を出そうとするあまり強引な騎乗をしていたことや、中央での活躍に慢心していたと自省したアンカツは、「馬のリズムに合わせた騎乗」という原点を見つめ直すことになりました。

そしてそれを実現するためには笠松からのスポット騎乗ではなく、中央における継続的な騎乗が必要であると考え、かねて中央の関係者から勧められていた中央移籍を現実的に考えはじめました。

加療期間として告げられた3カ月間を中央騎手免許試験の勉強に充てた勝己は、2001年10月30日、その1次試験を受験しました。

マスメディアでは「移籍確実」などと報じられていましたが、成績が合格基準に到達せず、結果は不合格でした

これに対して日本中央競馬会に対してファンからの抗議が殺到したほか、競馬関係者からもその結果について批判的な声が上がりました。

たとえば橋口弘次郎は「アンカツだけは特例と思ってた、ファンの立場からすればあれだけ信頼して買える騎手もいない、競馬界にマイナス」と述べています。

最も多かったとされる批判は「地方で充分な実績を挙げた騎手と、10代の少年達が同じ試験内容なのはおかしい」というもので、翌2002年7月、競馬会は騎手免許試験の取り扱いを一部変更し、「受験年の前年以前の5年間において、中央で年間20勝以上の成績を2回以上収めている騎手に対しては基礎的事項は問わない」という新要項を発表しました。

当時、地方騎手でこれを満たしていたのは勝己のみで、この基準は俗に「アンカツルール」と呼ばれることになりました。

アンカツは後にこの出来事について、「おれは、マスコミやファンの人たちの力を、このとき痛感した。そして、ふとオグリキャップのことを思い出した。そもそも『オグリキャップのような強い馬が地方に現れたときに、中央のクラシックに参戦できないのはおかしい』というマスコミやファンの声に端を発して、中央と地方の交流がはじまった。そこからさまざまの制度改革が進み、いまや騎手試験制度の見直しにまで至った。そうした流れの中で生まれた力がいま、おれの背中を押してくれている。そのことに気づいて、心の底から感謝の念が湧いてきた。」と述べています。

2003年2月、アンカツは改めて騎手免許試験を受験し、13日に合格が発表され、23日に正式に騎手免許の交付を受け、「JRA騎手・安藤勝己」となりました。

なお、地方騎手としての最後の騎乗は当年元日に笠松で行われた東海ゴールドカップで、騎乗馬サダムクリスタルが発馬機内で暴れたことで両足を骨折し、「騎手負傷のため競走除外」という結果となった

ちなみに笠松時代の地方競馬で通算3299勝を挙げています。

中央競馬時代

3月1日、JRA騎手としての初騎乗を迎え、2戦目で「初勝利」を挙げ、さらに翌週からはチューリップ賞、中京記念、フィリーズレビューと重賞を3連勝し、さらに30日にはビリーヴで高松宮記念を制し、1カ月足らずのうちにGI初制覇を果たしました。

アンカツは「GIレースの制覇はライデンリーダーとのコンビで中央に参戦した頃からの夢だったから、嬉しさは格別だった。周囲からは淡々としているように見えたと言われたけど、やはり感慨深いものがあった」などと語っています。

さらに秋にはザッツザプレンティで菊花賞を制し、クラシック競走を初制覇、同馬とは春の皐月賞からコンビを組んでおり、ライター・評論家の亀谷敬正は、アンカツが「皐月賞で掴んだリズムをダービーに活かし、夏休みを挟んで、ザッツの成長を秋に調教で感じ取り、菊花賞では思い切った騎乗を見せ」たとして、「菊花賞制覇は、安藤勝己騎手が中央入りができたら『続けて馬に乗りたい』『調教に乗りたい』という2つの夢が叶ったからこそ、実現したといえる」と評しています。

また、この年にアンカツは実働10カ月のうちに重賞10勝を含む112勝を挙げ、勝利度数ランキングで3位につける活躍をみています。

2004年は2月にアドマイヤドンでフェブラリーステークスを制覇、3月に同馬でドバイワールドカップに騎乗、春にはキングカメハメハでNHKマイルカップを制したのち、さらに同馬と共に臨んだ東京優駿にも優勝、移籍2年目にしてダービージョッキーとなりました。

「騎手ならば誰もが憧れる」といわれる競走ですが、アンカツは「ずっとJRAで乗っていた人と違って、ダービーにそれだけ深い思い入れがないというか、実感がない。騎手を辞めたときにダービーを勝ったというのが凄いことだと感じると思う」との感想を述べました。

ただし、競走前に受けたインタビューにおいては「前はGIはどれも一緒だと思ってたけど、去年3着に負けて、その横で勝ったデムーロがすごい歓声で迎えられるのを見て、やっぱりダービーは違うなあと思ったね」と語っています。

さらにその翌週にはツルマルボーイで安田記念を制しており、上半期だけでGI4勝という成績を残し年間では前年を上回る127勝を挙げました。

2005年には104勝とやや数字を落としましたが、スズカマンボで天皇賞を制覇しました。

絶好位から終始スムーズにレースを進め、「GIでの会心の騎乗」と自賛する13番人気での勝利でした。

2006年には、かつてライデンリーダーで敗れた桜花賞をキストゥヘヴンで初制覇し、後に「自分の中に残っているものがあったから、余計に嬉しかった」と振り返っています。

また当年はダイワメジャーで天皇賞とマイルチャンピオンシップも制しました。

2007年にはサンライズバッカスでフェブラリーステークスを制したのを皮切りに、ダイワメジャーの半妹・ダイワスカーレットで桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯を、ダイワメジャーで安田記念とマイルチャンピオンシップを制し、JRA最多タイ記録のGI6勝を挙げました。

11月17日には史上2位記録である騎乗機会6連勝を遂げるなど、年間勝利数では中央移籍後最多の136勝、地方・国外の成績を合わせた勝率では2割3分6厘7毛を記録し、過去5年間、JRA賞の騎手タイトルを独占していた武豊を抑え、最高勝率騎手となりました。

なお、当年には光彰が、経営危機が伝えられていた笠松から中央へ移籍し、兄弟で中央の騎手となりました。

2008年にはブエナビスタで阪神ジュベナイルフィリーズを制覇、年末にはダイワスカーレットでグランプリ・有馬記念制覇を果たしました。

牝馬の優勝は1971年のトウメイ以来37年ぶり、史上4頭目の記録であった。

なお当年アンカツは勝利数4位、勝率2位、獲得賞金3位とJRA賞では無冠であったが、最多賞金獲得騎手はアンカツに続いて地方から中央入りした岩田康誠が武豊を抑えて獲得、前年3月から中央入りした内田博幸も全部門で4位以内と急激に台頭し、地方競馬出身騎手の躍進が目立った年となりました。

2009年にはブエナビスタで桜花賞と優駿牝馬を制覇。

この頃から騎乗数を抑えはじめ、勝利数はJRA移籍後はじめて100勝を切る87勝にとどまりましたが、勝率では2割1分6厘を記録し自身2度目の最高勝率騎手となりました。

翌2010年1月30日には、中央競馬史上24人目となる騎手通算1000勝を達成、これにより史上初の中央・地方双方での1000勝を合わせて達成しました。

また、5月にはダノンシャンティでNHKマイルカップを制覇しています。

2011年にはマルセリーナで桜花賞4度目の勝利を挙げています。

51歳0カ月14日での勝利はクラシック競走の最年長勝利記録となり、その後2012年11月24日の京阪杯でパドトロワに騎乗したのを最後に、レースでその姿をみせることがなってしまいました。

引退

2013年に入っても実戦騎乗がない状況が続く中、1月30日に次年度の騎手免許更新の手続きをしていないことが明らかになりました。

同日、納得のいく騎乗ができなくなったことを理由に翌1月31日を以って騎手免許を返上し、現役を引退することを表明し、2月3日に京都競馬場で引退式が行われました。

なお、後日公式twitterにて、前述の2012年京阪杯でパドトロワに騎乗したことをふり返り、「京阪杯はもっとやれると思っとった。動かしきれんで納得いかなくて、引退決意したんや」と引退の理由を明かしました。

引退後

引退の記者会見では「調教師や調教助手になるつもりはない」としながらも「ファンに競馬のよさを伝える仕事ができれば」と語っていましたが、現役時代から続けている『週刊実話』のコラム「アンカツの『勝負師の極意』」に加え、2013年4月には『競馬最強の法則』で「競馬アンカツの流儀」、東京スポーツでコラム「GIはアンカツに聞け!」など、相次いで競馬関連メディアで連載を持っていた時期があり、現在は東京スポーツ専属の競馬評論家として活動を行っています。

また、テレビ放送では『みんなのKEIBA』と『競馬BEAT』に出演、主に牝馬のG1競走、ダービー、有馬記念などで解説者として出演しています。

まとめ

今回の記事ではアンカツこと安藤勝己さんについて深堀してご紹介していきました。

また、安藤勝己さんは、元騎手、トップジョッキーなだけではなく、評論家としても活躍しています。

また、東スポ等で予想を発表したりYouTube投稿をしたりなど活発に活動をしているので気になった方は是非チェックしてみてください。

本間真一郎

1978年12月22日生。東京大学経済学部中退。 某大手商社で役職に就く典型的なエリートでかなりの知的派。その一方で趣味の競馬歴は既に20年を超えており、2021年のエリ女で3連単を的中させたことを未だに友人に自慢している。 好きな馬はもちろんアカイイト。 趣味は車とウイスキー。最近横浜にバーを開店させたオーナーとしての一面もある。 好きな言葉は「明日の百より今日の五十」。

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